おはようございます、今日は漫画週刊誌の日です。

1959年(昭和34年)のこの日、日本初の少年向け週刊誌『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』が発刊された。
『週刊少年マガジン』について
講談社が発行する漫画雑誌で、現在は毎週水曜日に発売されているが、創刊当初は木曜日発売で定価は40円であった。
その当時のキャッチコピーは「ゆめと希望の少年マガジン」で、主力作品は連続小説が大半を占めていた。最初はヒット作には恵まれず、ライバルである『週刊少年サンデー』に水を空けられている状況が続いた。
しかし、1965年(昭和40年)のちばてつや「ハリスの旋風」を皮切りにマガジンの快進撃が始まり、「巨人の星」「あしたのジョー」の2大スポ根マンガで一気に少年雑誌としての地位を不動のものとした。その他にも「ゲゲゲの鬼太郎」「天才バカボン」なども連載を始め、1967年(昭和42年)1月にはついに100万部を突破した。
『週刊少年サンデー』について
小学館が発行する漫画雑誌で、現在は毎週水曜日に発売されているが、創刊当初は火曜日発売で定価はマガジンよりも安い30円であった。
「サンデー」という誌名は「この雑誌を読むとまるで日曜日のように楽しい気分に浸れるように」という初代編集長・豊田亀市が名付けた。創刊前には「小学館の新児童誌」と宣伝され、実際、創刊から10年近くの間、学年誌の延長線上にあり、読み物や付録などが充実していた。
創刊号のラインアップは手塚治虫「スリル博士」、横山隆一「宇宙少年トンダー」、寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」、藤子不二雄「海の王子」、益子かつみ「南蛮小天狗」であった。
創刊号の売上げはサンデーが30万部、マガジンが20.5万部でサンデー側に軍配が上がり、マガジンも5号から30円に値下げした。これ以降もお互い張り合って雑誌の総ページ数を増やしていった。
1960年代半ばには手塚治虫「W3」がマガジンからサンデーに移籍する「W3事件」が起き、1960年代末には「天才バカボン」がマガジンからサンデーに移籍するなど、その後もライバル間の争いは続いた。

https://zatsuneta.com/archives/103171.html

おはようございます、モクレンHP制作所担当です。今日は漫画週刊誌の発行された日です。当時はマガジンとサンデーだけだったのですね。担当が生まれる前の話なので、実際に担当が漫画週刊誌に触れたのは早くて10年後くらいですね。因みにジャンプはというと、両誌に遅れる事9年後の1968年に創刊となっています。担当はマガジン派だったので実はサンデーを全く読んでいません(笑)。ジャンプが出た後はマガジンからジャンプに乗り換えて少年時代を過ごしました。社会人になってからはめっきり読まなくなりましたね。好きな作家さんのコミックスを買う程度で世間の話題から取り残されておりました。
しかし、手塚先生のW3(ワンダー3)はアニメで見た世代ですが、当時は色々と背景があった様です。詳しくはWikipediaの「W3事件」を見ていただけるとよくわかります。結構奥が深い話みたいです。バカボンの移籍は特には何もなかった様ですが、当時サンデーに掲載されていた「もーれつア太郎」に押されて半年で打ち切りになったそうです(その後、マガジンで復活)。掲載誌の変更では両社で揉めなかったのか興味のあるところです。
それでは本日もよろしくお願いいたします!!!

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